#105 清繭子について私だけが知っていること
おはようございます!
土曜の朝の◎小泉週報です。
映画美学校に行きたいんだけど、どうだった?
と、若い人に訊かれることが時々ある。
入学金50万円も払ったのに何にもならなかったよ。(あの頃の50万円は、全財産以上だった)
私は映画美学校にさえいけば、そこから「天国への階段」みたいな薄ピンク色の光に包まれた一本道が続いて、まっすぐ歩けばいつか映画監督になれるものだと本気で信じていたけど、映画美学校は卒業と同時にポイっと放り出されてそれで終わり。
楽しかったけど、何にもならなかった。
映画美学校12期の女の子は10人にも満たなくて、
「女はいいよね、だって女が『映画監督になりたい』って言うだけで目立てるからさ」
最初にクラスメイトにそう言われた。
彼に悪気はなくて、応援してくれているのがわかったけど、そんな時代だった。
私は、映画美学校ではまったく相手にされていなかった。
私はなんていうか、ただの、映画好きの不思議ちゃん。
そんなキャラを払拭するような作品を作れないまま、一年が終わった。
清繭子。
彼女は大島弓子の漫画のヒロインみたいな、きれいで完璧な名前を持つ同級生で、私たちはそこで出会った。
「綾ちゃんのやりたいこと、私、わかるよ」
課題作品の講評の授業のあとで、彼女はわざわざそう言いにきてくれた。
酷評されたわけじゃないけど、「女子が好きそうなハナシ、って感じだね(笑)」と講師に言われた日のことだった。
かなりムキになって反論したものの論点が噛みあわず、半泣きになったところで「君以外にも生徒はいるんだから、貴重な時間を独占しないで」と、発言を遮られたことに地味に傷ついた。
後ろの席の誰かから、「不毛な議論」と囁かれた。
「なんかさぁ、綾ちゃんが作りたい映画って、『人生うまくいかなくてどんどん絶望にむかっちゃう感じでさ、でもさ、そこが切なくていいんだよね!』っていうような作品なんでしょ? わかるよ、だって私もそういう映画が大好きだもん。でもさ、そういう繊細な話を作るのって、超難しいよね」
清繭子は、あの日の授業が終わった後で、わざわざそう言いにきてくれた。
ちょうどいい明るいトーンで、そう言って去っていった。
「夢見るかかとにご飯つぶ」を読んだ人は、あらゆるエピソードを読んで、
「……、繭子、夢見すぎじゃないのか」
そう思うかもしれない。
でも、彼女は全然大丈夫なのである。
清繭子は私たちよりもはるかに努力家で社会性に優れ、コミュ力、協調性に長けた人物であることをお伝えしておく。
「フリーターでバイトしながら夢を追う」というような、自分も周りも時と共に不幸になっていくタイプの夢追い人ではなく、責任感と計画性があり、明るい未来を描き続けられるタイプの夢追い人なのだ。
だからきっと、死ぬまで夢を見て、大きな夢だって叶えることもできるのだと思う。
それはどうしてなのかとエッセイを読みながら考えていたが、彼女は「機能する優しさ」を持っているのだと気がついた。
そしてこれが、私から見て清繭子の一番いいところである。
タスクをさばくように、ためらいなく困っている人に手を差し伸べてたり、貴重なアドバイスを、もったいぶらずにさらりと教えてくれたりするのである。
名前と同じくらい洗練された彼女の優しさ。
それはいつも適切な容量用法で、差し出すタイミングも完璧なのだった。
夢見がち、というのは、弱さでも痛さでもなく、想像力を武器に世界をサバイブしていく力のことだと思う。
夢を叶えるために、孤立したり心が乏しくなってはいけないと気づく。
誰かを傷つけたり、自分を苦しめたりしていたら、夢を見続ける環境から離れていく。
夢を見る力の中には、周りも幸せになるような優しさがきっと必要なのだ。
今週は以上です!
また次回お会いしましょう!
小泉綾子
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